第11回 「相模台地区の都市化の移り変わり」
「オダサガ(小田急相模原駅)」と「国立相模原病院」を核とした、まちの移り変わり
今回のテーマは「相模台地区」が東京の近郊住宅地として、大きな街へと変貌してきた足跡を振り返ってみたいと思います。
「相模台地区」が今日のように大きな街になったのには、<三つの大きな節目>がありました。
戦後70年を経る間に起きた三つの大きな節目は、『三つの都市化』と言い換えることができます。
(この「三つの都市化」という表現は、相模台地区の大きな時代の変化の中で感じた「筆者の捉え方」であることをご了承ください。)
<最初の都市化—それは戦後すぐの1946(昭和21)年に始まりました。>
・相模台地区がまちの姿になった始まりは、皮肉にも昭和の始めに農村地帯に突然起こった『軍都計画』でした。それまでは日本の何処にでも見られるような静かな、畑作中心の農村集落がわずかにあるだけの台地上の一部でした。
・そこに降って湧いたように『軍都計画』が持ち上がったのです。1936(昭和11)年、陸軍士官学校用地買収の申し入れがあり、麻溝、新磯、大野、座間の各町村長が座間町役場に呼び出されて農地買い上げの承服を迫られました。軍からの強制的な申し入れにより各町村民は泣く泣くその要求を呑み、営々と手入れをしてきた畑作地を手放すこととなりました。
・相武台陸軍士官学校の付属施設として各村々を呑み込む広大な演習地がつくられました。広さは462ヘクタール(4.62平方キロメートル現在の「木もれびの森」の約6.3倍)という膨大な面積でした。
・この一角に陸軍病院もつくられました。「臨時東京第三陸軍病院」がそれで、原野を切り開いた用地は工事開始からわずか2ヶ月という驚異的な突貫工事のもと1938(昭和13)年、開院しました。「 臨時東京第三陸軍病院」の面積は約36万平方メートル(約10万8千坪)で現在の(独)国立病院機構・相模原病院の約4倍の広さがありました。
(左)図2:臨時東京第三陸軍病院位置図
(右)写真1:臨時東京第三陸軍病院全景
(左)写真2:臨時東京第三陸軍病院正門
(右)写真3:臨時東京第三陸軍病院病棟
・陸軍病院の開院に合わせて小田原急行線(現在の小田急線)に新駅が誕生しました。開業当時は「病院前駅」。後に「相模原駅」となりましたが、この当時は北口しかありませんでした。 まもなくこの駅名は国鉄(当時),現JR横浜線の「相模原駅」にゆずり、駅名は現在の「小田急相模原駅」に落ち着きました。
・この陸軍病院には常時4千〜5千名もの患者数(傷病兵)が収容され、時には6千名を超えることもあったそうです。職員は2千2百〜2千3百名いましたが看護婦は5〜6名しかいなかったそうです。小さな集落しかなかったこの地区に突然これだけの人口が移り住んで来たわけですから、このことを相模台地区の『最初の都市化』と呼んでいいのではないでしょうか。
<第二の都市化>
・戦後1945(昭和20)年12月、「臨時東京第三陸軍病院」は厚生省所管の「国立相模原病院」となりました。(現在の正式名称は、「独立法人 国立病院機構 相模原病院」といい、広範囲の地域を支える重要な医療施設となっています)
・陸軍病院から国立病院に移った際、敷地は4分の1に縮小され、残りは「相模台団地」、「相模台公園とテニスコート/野球場」、「相模台中学」、「桜台小学校」「県立職業能力校」、「相模台子どもセンター」、「分譲住宅」などほとんどが公共的施設に生まれ変わりました。縮小されたとはいえ、それでも現在の「国立病院機構 相模原病院」は東京ドームの約2倍の広さがあります。
(左)写真11:県立職業能力開発校
(右)写真12:相模台子どもセンター
・小田急線「小田急相模原駅・北口」と「国立病院機構 相模原病院」、このふたつの施設を真っすぐに結ぶ1キロメートルの長さの「相模台商店街通り」。この三つの要素からなる基本的な構図は、戦後70年経った現在も少しも変わりがありません。そしてこれらの施設(駅、商店街通り、病院)の位置関係がその後、相模台地区の「まちづくり」を発展させる大きな基礎となりました。
・1946(昭和21)年、陸軍士官学校演習場跡地が民間に払い下げられ、満州からの引き上げ者達を中心として、荒れ地に開墾の鍬が入り少しづつ開拓者達の集落が出来始めました。麻溝台地区の始まりです。
・入植した当初の開拓者たちは電気も水もない痩せた大地を営々と耕し、お互いに助け合うために開拓農業協同組合を結成し、少しづつ農地を広げ、滋味の痩せた台地であったため畑作だけでなく養豚、養鶏、酪農などにも手を広げていきました。(この話は、当ホームページ、第6回「麻溝台地区の昔々」No.1をご参照ください)
・戦後から10年経ち、1960年代〜1970年代(昭和30年代〜40年代)、日本は高度経済成長時代を迎え、広大で平坦な畑作中心の台地は、都心から電車で1時間という立地の良さで東京、川崎、横浜方面からのサラリーマンの人口流入が急増。周辺の畑に、大型団地(「鶴ケ丘団地」(昭和33年)、「相模台団地」(昭和41年)、「相武台団地」(昭和44年))が次々と誕生。このように当時のサラリーマン憧れの文化住宅であった団地が相模台地区周辺に建設され、一戸建て住宅の増加と相まって、オダサガ駅に通じる相模台商店街通りは大いに栄え、1980年前半(昭和50年代後半)には商店街通りで夏祭りも開催され、賑わいは最高潮に達しました。
・相模台商店街通りは、これまで行く通りかの名前で呼ばれて来ました。最初は「国立病院通り」、「国病通り」と今でも短く言う年配の人たちもいます。「相模台商店街通り」となり1990年代(平成10年代)頃、時代の流れに合わせ、通りの長さが1キロメートル有るところから「サウザンロード相模台」とシャレた名前で呼ばれるようになりました。
・上記でお話しましたように1970年代(昭和40年代)、畑作地に大型団地が次々と出現、また戸建の住宅街が広がり、そして商店街の賑わい。これらの要素が組み合わされて相模台地区『第二の都市化』となりました。その後、周辺に大型スーパーマーケットや相模大野、町田に都市型デパートが進出し、クルマで買い物に—という生活スタイルの大きな変化のもと、生鮮食料品店を中心としたお惣菜専門店が激減し、地元での買い物客が少しづつ減り、かつての賑わいと活気が失われてきていることはとても残念なことです。
<第三の都市化>
・1996(平成17)年、小田急相模原の駅ビルを含む「北口駅前再開発」で相模台地区のまちは大きな変化をとげました。町田、相模大野に次ぐ三つ目の近代的なまちづくりが始まりました。「ラクアル・オダサガ」の誕生です。2013(平成25)年、2度目の北口駅前の再開発が行われ、県道51号線(行幸道路)の上に屋根付きの歩行者専用横断デッキで最初の駅ビル地区と直接結ばれた、医療施設を含む二つ目の大きな商業施設、「ペアナード・オダサガ」が誕生しました。これが相模台地区の『第三の都市化』です。
(左)写真18:再開発地区風景1
(右)写真19:再開発地区風景2
・まちの変化は商業地、住宅地だけにとどまらず、麻溝台に広がる「麻溝台工業団地」にも及んでいます。1955(昭和30)年、市の「工場誘致条例」に沿って、1970(昭和45)年頃、麻溝台工業団地に自動車メーカーの部品工場や精密機械工場が進出しました。2014(平成26)年「圏央道相模原愛川インターチェンジ」開通に伴い工業団地内に巨大な倉庫群が建ち始め、45年を経たこの工業団地にも新しい流通革命の波が起きています。これも<第三の都市化>のひとつと言えるでしょう。
【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】
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