第2回「中和田新開(蓼川新開)と旧府中道」

 

小田急相模原駅の北口再開発地域の急激な発展ぶりには目を見張るものがあります。
2013年10月10日にグランドオープンした「ペアナード・オダサガ」は、北口改札からそのまま行幸道路をまたいだ歩行者横断デッキを通って相模台地区に入ることが出来るようになりました。こんな劇的な変化がこの地区に起ころうとは10年前までは誰が想像できたでしょうか—。

ここで、相模台地区の歴史を少し遡ってみましょう。

今日の大変貌を遂げる迄には,この地に初めて開拓の鍬をふるった先人たちの大きな苦労があったことを忘れることは出来ません。まだ一面の萱(かや)が生い茂る不毛の原野であった相模台地区に、初めて人の手が入ったのは明治13年のことでした。つまり江戸時代までは人が誰も住んでいなかったわけです。狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎませんでした。明治時代になってから、畑作地として開墾された土地を「新開」と呼んでいますが、(すでに江戸時代に開墾された畑作地は「新田」と言い区別しています)中和田新開は、現在の小田急相模原駅の周りと、駅の北側一帯に位置していました。

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この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という人が、私財を投じてこの地の約二十町歩を購入し、人々に開墾を呼びかけて始めたものでした。その後、その熱い呼びかけに応えて鈴木孫七以下数名が開墾に加わりました。この地にはもともと府中街道という、厚木から当時の武蔵の国、国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開墾地もこの街道に沿って耕されました。座間村河原宿から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていたのです。そのうち新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いたということです。

その後、明治27年になって開拓者たちは次々と府中街道に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、大正8年には14戸にまでなって府中街道と辰街道の交差する未開地のなかに小さな集落が出来上がりました。これが現在の相模台地区発展の「原点」となったわけです。

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■左写真1:旧府中道に沿った中和田新開跡地を旧辰街道側より見る
■右写真2:サウザンロード側よりペアナード・オダサガ後ろ側の旧中和田新開跡地と旧府中道(拡張後)を見る

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■左写真3:旧府中道に沿った中和田新開跡地を行幸道路側より見る
             (三角角地にある黒く囲まれた部分が中和田新開開拓記念碑)
■右写真4:右手道路はペアナード・オダサガ後ろ側の旧中和田新開跡地
       (手前の石碑は道祖神と移設された中和田新開開拓記念碑)

130年余りの時が流れ、人も住めないような原野であった相模台地区一帯は、今や東京近郊の一大住宅地となりました。そしてオダサガ駅前の再開発事業は構想から25年を経て、新たな再開発地に「ペアナード・オダサガ」が完成。既に開業の駅ビル商業施設「ラクアル・オダサガ」と行幸道路をまたぐ歩行者横断デッキで直接結ばれサウザンロード商店街方面への行き来が格段にスムースになりました。今や、相模台地区は南区の中でも3番目に多い世帯数を抱えるまでの驚異的な変貌を遂げる「大きな街」になったのです。

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【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】
【ペアナードオダサガ航空写真/小田急相模原駅北口B地区市街地再開発組合】

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