第7回 「麻溝台地区の昔々」 No.2
※「麻溝台地区の昔々」については連続読物となっています。初めて読まれる方は、「麻溝台地区の昔々」No.1からお読みいただけると分かりやすいと思います。
<心の拠りどころとして、源悟山 顕正寺を招聘>
・麻溝台地区の開拓入植者たちの心の拠り所として昭和24年(1949)、日蓮宗の源悟山 顕正寺を現在地に建立。同地はそれまで鬱蒼とした松林で、子供たちの遊び場でした。昭和28年(1953)正式の寺院として昇格しました。
・毎朝6時に鳴らす境内の鐘は一年を通して現在でも地域に時を告げています。また、境内には二代目となる浄行菩薩が祀られています。信者が自分の身体の病や痛みのあるところを、菩薩像の足下にあるタワシで菩薩の同じところの身体を洗うと病が癒えると伝えられています。初代の菩薩像は永年の信者にお顔、身体を洗われてすっかり、すり減ったお姿になってしまい現在は取り外されています。
・平成4年、立派な本堂を建て替え現在に至っています。毎年11月18日には、日蓮宗のお会式が盛大に開かれています。
※お会式とは日蓮上人の命日にあたる10月13日(旧暦)にあわせて行われる法要のこと。
◆左から、写真1:源悟山 顕正寺全景、写真2:平成4年に再建された本堂
写真3:境内にある浄行菩薩、写真4:二代目の浄行菩薩像
<共有地に開拓広場を建設し、開拓記念碑を建立>
・農地の一角を転用し共同生活がやりやすいように「開拓広場」を造りました。(現在は麻溝台自治会館広場となる)この「開拓広場」は横浜水道みちをはさんで、東西に分かれていた「麻溝台開拓農業協同組合」を一つに結び合わせる重要な位置を占め、満州からの引揚者を中心に結成された47戸の共有地となっていました。
・同協同組合ではこの500坪以上ある広い共有地を開拓本部として事務所を作り、集会所、共同作業所を設け、共同で製材、精米などの各種作業を行っていました。この広場は、盆踊り、秋のお祭り、農産物品評会など地域の催事広場として広く利用されていました。
・昭和55年、この共有地を正式に「開拓広場」と命名、「麻溝台開拓農業協同組合」の歴史を永く後世に伝えるための記念として「開拓記念碑」を広場の一角に建立しました。
・平成10年、「自治会法人麻溝台自治会」が誕生。共有地を組合員総意のもと麻溝台自治会館設立に寄贈しました。相模野台地、陸軍士官学校練兵場跡地・開拓入植の記憶を残しつつ50年余り続いた協同組合を平成11年に解散しました。
◆左から、写真5:麻溝台開拓記念碑、写真6:現在の麻溝台自治会館広場
<隣接の「溝上開拓地」>
・昭和23年(1948)、麻溝台開拓団に続き、その西側隣りの陸軍士官学校演習場跡地に、下溝地区から入植した開拓者たちは溝上開拓農業協同組合を結成し、下溝地区からの援助を受けながら、開墾を続け、麻溝台地区発展の一翼を担って来ました。開拓の精神を顕彰するために 平成9年(1997)開拓記念碑を建立しました。
◆左から、写真7:溝上開拓記念碑、写真8:現在の溝上地区の街並。右端は溝上自治会館
<陸士標柱>
・かつて軍都時代(昭和11年~昭和20年)の南区南西側一帯の耕作地は、これまでにお話しましたように、陸軍士官学校の所有地として軍に買い上げられ広大な演習地が広がっていました。南側は新磯村から北側は麻溝村にまたがる約460町歩(約140万坪)という膨大な広さでした。これらの区画を示す小さな石の標柱が、麻溝台自治会館前の住宅地角に今も残っており「陸士」と刻まれています。 当時の演習地跡がいかに広大な土地を占有していたかを、この標柱が今に伝えています。標柱の裏側には今でも「4」という数字が読み取れます。表側、裏側とも文字はようやく判別ができるという状態ですが、いくつもの標柱が広い演習地を取り囲むように立てられていた様子を想像することができます。
・士官学校演習地となり、先祖が営々と耕してきた来た畑地が買い上げられたため、農家は立ち退きを余儀なくされました。また、生活道路としての日光道や辰街道の道筋は消されてしまい、下溝新開や篠原新開も跡形も無く消えてしまいました。往時の標柱や塚なども失われ、相模野台地の歴史を伝える痕跡が一切失われたことは大変残念なことです。
◆左から、写真9:住宅角地にある陸士標柱、写真10:陸士標柱表側、写真11:陸士標柱裏側
◆資料出典:「麻溝台地区の生い立ち」麻溝台地区郷土史編纂委員会、他
「麻溝台地区の昔々」 No.3へ続く・・・。
【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】
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