第10回 「麻溝台地区の昔々」 No.5
今回の麻溝台の昔々は、前回、No.4で取り上げた『相模野基線』の続きをご紹介いたします。
◆南端点を同時に設定し観測・・・
・前回紹介した「北端点」を定めたということは、その観測の一方の端点となる「南端点」が存在します。南端点は小田急江の島線東林間駅の西方、座間市域ひばりヶ丘1丁目(私有地内)にあります。この南北両端の基点の間を 測量して正確な距離を算出。実測値:5,209.9697メートル(100万分の1の精度)。1924(大正13)年にも観測が行われ、実測値:5210.2125メートルを算出。この誤差は前年の関東大震災によるこの地域の地殻変動を検出したためといわれています。
・標石の形状、解説板の記述内容は、「北」が「南」と変わっているだけで、「北端点」と同一規格で統一されています。
写真1:南端点全景 写真2:南端点標石
◆中間点を設け、より正確な観測を行う・・・
・「北端点」と「南端点」のど真ん中に当たる「中間点」が、座間市相模が丘2丁目5番地付近の「さがみの仲よし小道」近くの市道上に現在も残されており(四等三角点)、道路脇に詳しい解説板が建てられています。この解説板の存在に気が付かないと、道路上にある「中間点」そのものの標識(地中に標石が埋められている)にも気づく人は少ない筈です。
写真3(左):中間点の解説板と標石が埋め込まれた市道
写真4(右):フタの上に記された中間点の表示
<明治時代の地形図作成のための近代測量の変遷>
・1879(明治12)年、全国測量の基本計画策定
・1982(明治15)年、基本測量の開始(相模野基線)
・1983(明治16)年、一等三角測量・一等水準測量の開始。1913(大正2)年第1回終了。二等三角測量の開始。1917(大正6)年終了。三等三角測量の開始。1920(大正9)年終了。
・霊岸島(れいがんじま・隅田川河口)の潮位観測結果から東京湾平均海面を決定。
・1890(明治23)年、5万分の1地形図作成開始。1916(大正5)年、全国整備完了。
・1891(明治24)年、日本水準原点設置。
・1910(明治43)年、2万5千分の1地形図作成開始。1983(昭和58)年、73年後、2万5千分の1の地形図による全国整備完了。
ここで、明治時代の基線測量はどのように行われたのかを見てみましょう。
<明治時代の基線設置の経緯を見てみると>
・全国の地図作製の骨格を与えるために一等三角点を設置(全国に約330点、45キロメートル間隔)計画。
・三角測量は角度を測る測量。
・位置(経緯度等)を求めるためには、先ず始めに1辺の長さを計測する必要があり。
・45キロメートルの辺長(一等三角点同士)を直接観測は不可能。
・一定の長さ(基線)を正確に測って、計算によって1辺の長さを算出。(相模野基線はその一番最初の基線となる)
・基線設置の候補は、平坦地で端点間が見渡せ端点間の高度差が少ない場所。
・基線を測量することが「基線測量」。
・日本国内では、1882(明治15)年の相模野基線から1911(明治44)年の沖縄基線まで全国計14基線を設置。
<基線観測の計測器について>
・実際の基線観測の方式は4メートルの長さを持つ鉄の棒で出来た「ヒルガード基線尺」が使用された。従って日本列島全体の大きさを決めたのは、この4メートル長さの鉄の棒が大元になっている。
・「ヒルガード基線尺」は、1877(明治10)年、米国海岸測量局技師ヒルガード:Hilgard氏の考案によって製造された。この基線尺は長さ4メートル、直径9ミリの鉄製円棹(測竿・そっかん)で、この鉄棒を幅7.6センチ、高さ15.2センチ、長さ4メートル弱の木箱に入れ、地上に置かれた三脚上のバネによって支えていた。
・基線尺は鉄製のため、気温の変化により微妙に伸縮するため、温度を測定する必要があった。基線尺に接するように木箱中に1個の温度計を使用。
・また傾斜を測定するため、木箱の一方側に水準器を装備していた。最初に設置された基線尺は、長さを測るのではなく、温度と傾斜を測定していた。
写真5(左):麻溝台に広がる桑畑を刈り払い道をつくる。左手に測標(ぼんてん)が見える
写真6(右):明治43年の観測風景
・観測は、ヒルガード式4メートル基線尺を3本と木製三脚8本を使用して、基線尺を次々に接合して両端点間の観測を行った。
・基線尺の精度は、接合精度と直線及び水平の精度、さらには温度測定の精度で決まる。
・直線で観測が出来るように事前に予備観測を行い、一定の間隔で杭を打っておき、観測は杭に沿って行った。
・水平については、木製三脚の上部にある調整ネジで調整して水平を保った(最終的には傾斜を測定し補正を行った)。このように、近代測量に基づく相模野基線の実測は膨大な労苦のもとに行われた当時の「国家的プロジェクト」と言えるでしょう。
百メートル比較室
(測地学試験場・通称六十間長屋(ろくじゅっけんながや))現在の相模台2丁目15番地
・相模野基線の付属施設として、基線の中間点付近に1902(明治35)年に、基線の精度を上げるために百メートルの軌条と標石をもつ東西110メートルの茅葺き屋根を建てました。1928(昭和3)年頃まで存在していたようです。
・長く、その所在が不明となっていましたが、昭和54年に宅地造成中に標石が発見されました。現在はその宅地敷地内に案内板が建てられているのみで当時の面影は何も残っていません。案内板を見てみますと―
近代遺跡 「百米(メートル)比較室」跡
明治35年に当時の文部省測地学委員会が相模野基線(※)を再測量するために設置したものです。此の比較室には、長さ百米の軌条と両端には標石がありました。外観は茅葺き屋根の木造建築で、二間(3.6m) x 六十間(110m)の東西に細長い建物であったため「六十間長屋」と呼ばれていましたが、昭和初期に撤去されました。昭和54年4月、宅地造成中に偶然この地より比較室の標石などが発見されました。その後、当会会長宮原晸(てい)二郎が古い地図や聞き取りによる調査を行い東端の地もわかりましたので、この地の標石は西端の物と判明しました。現在、標石はこの地下に保存されています。日本測量史上、欠く事の出来ない貴重なこの地を広く認識して戴くために説明板を設置いたしました。
※相模野基線…明治15年に設置された日本で最初の測量基線。
北端点は相模原市、南端点は座間市に保存されています。
平成9年5月
協賛 相模野歴史クラブ
(有)FNGアート
写真7(左):かつて「百メートル比較室」があった相模台二丁目の風景)
写真8(右):案内板
資料出典:「山岡 光治著 地図をつくった男たち」、「土木遺産認定講演会資料」、他
【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】
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