第6回 「麻溝台地区の昔々」 No.1
<陸軍演習地跡への入植、開墾の時代>
・麻溝台地区の歴史は戦後昭和21年、旧陸軍士官学校演習場が民間に払い下げられ満州からの引揚者を中心とした未墾地の開拓より始まりました。
・時の政府は食料の増産をはかり、経済復興を早め、戦災者や海外引揚者に就労の機会を与えるために「緊急開拓事業」を実施した結果、旧軍用地などに、外地からの引揚者や空襲で焼けだされた都市産業離職者たちが無計画に入植し、食料自給を始めたのです。
・こうした混乱状態を収拾するため「農地解放令」が制定されました。小作農地と同様に未開墾地も国が直接買収して、自作農創設に供することになり、麻溝台地区の開拓が始まりました。
・先ずは宿舎を確保しなければなりませんでした。生活に欠かせない飲み水が無かったため、旧国立病院から人が担いだり、馬を使ってもらい水をすることから始めたそうです。戦後2年経ってから、やっと共同井戸を掘ることが出来たそうです。
・地味の痩せた台地の未墾地であったため作物はほとんどサツマイモしか穫れず、苦しい生活が長く続きました。
・昭和23年に施行された「協同組合法」に基づいて、麻溝台地区の人たちはいち早く「開拓農業協同組合」を結成。県当局や金融機関から営農資金の貸し付けを受け、土壌改良に務め作物の増産をはかり、生活の基盤を少しづつ安定させていきました。
・昭和23年になってようやく待望の電気が引かれました。どの家からもバンザイの声が上がったそうです。
・昭和24年に開拓者たちがお互いのきづなを深めるために「開拓まつり」を開催。その後「ふるさとまつり」へと発展しましたが、時代の移り変わりもあって昭和40年を最後にお祭りも途絶えてしまいました。
・開拓者たちは、農作物だけに頼らず、広い開拓地の条件を活かして乳牛、養豚、養鶏、花卉栽培経営と次々と手を広げ、たくましく時代の荒波を乗り越えて来られました。
写真1:現在も住宅地の中に残る畑作地 | 写真2:現在の麻溝台地区の様子 |
<子弟の教育の場をつくるため、小学校分校の設立>
・生活の基盤が出来てくると、次は子供達の教育が大切となります。入植当時の麻溝台地区の学区割りは、JR相模線「原当麻駅」そばの麻溝小学校、麻溝中学校(昭和26年に新磯中学校と合併し相陽中学)でした。
・これらの学校は、雑木林と畑を抜けて約4キロも離れ、低学年の子供達には毎日の通学は大変なことでした。雨の日、風の吹きすさぶ日、真夏の照りつける陽射しと安全な道ではありません。昭和23年、大人たちはこの状況をなんとかしようと、小学校の新設を神奈川県及び相模原町に申し入れ、町議会での検討の結果、昭和24年に「相模原町立麻溝小学校麻溝台分校」が、麻溝台7丁目の横浜水道みちの脇にようやく出来上がりました。
・その後、昭和34年相模台小学校が開校したため、分校は10年間で閉鎖、子供たちは相模台小学校本校に移ることになりました。
写真3:横浜水道みち脇の麻溝台分校跡地 | 写真4:麻溝台分校記念碑 |
<幼児を育てる保育園をつくる>
・相模原町(当時)、町立初めての麻溝台保育園が横浜水道みち沿いに完成しました。
・昭和28年(1953)相模原地区の開拓者たちは、子供たちを預けて安心して開墾を進めることが出来るように開墾地の一部を保育園用地として相模原町に寄贈。公立では全国で二番目、町立では初という 早い時期に施設を開園させることが出来ました。翌年、相模原町が市制施行され市立保育園となり、現在に至っています。
写真5:水道みち、より見た市立麻溝台保育園 | 写真6:市立麻溝台保育園入口 |
◆資料出典:「麻溝台地区の生い立ち」麻溝台地区郷土史編纂委員会、他
「麻溝台地区の昔々」 No.2へ続く・・・。
【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】
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