第12回 「相模台地区の今と昔 <まち歩きマップ>」を開いてみよう  No.1

 

相模台の今の魅力と歴史を凝縮した <まち歩きマップ> が今年、1月に完成。今回はその中身をじっくりと紹介します。

■このマップは1年半を掛けて相模台公民館の文化部メンバー及び文化部協力員(筆者もその一人)が中心となり、「相模台地区まち歩きマップ制作委員会」を立ち上げ、取り上げる内容や方向性について協議を重ね、ようやく完成にこぎ着けたものです。同地区の自治会加入世帯へ全戸配布された他、相模台公民館、相模台まちづくりセンター、南区役所で無料配布されたのですでに目にされている方も多いと思います。(無料配布継続中)
(※このマップは、平成26年度相模原市「地域活性化事業交付金」を受けてつくられたものです)

■今回のこの『ちょっと寄り道、相模台地区にはこんな歴史が・・・』では、この <まち歩きマップ> を当ホームページ上で取り上げることで、これまでの第1回〜第11回 まで連載の「相模台地区の歴史」全体を改めて振り返ってみる良い機会になる筈です。

<このマップの特徴は―>
・ハンディタイプの大きさで、開くと「楽しい絵地図」にしたこと。(絵地図、表紙の絵、裏表紙の「さがみっぱらのむかし話」の絵はいずれも地元在住の漫画家・市村 章氏の全面的な協力を得ました)
・制作は専門家に頼らず、すべて自分たちの手で作ったこと。(現地取材、写真撮影、原稿書き、レイアウトなど。完成原稿は市立博物館学芸員の方達のチェックを受ける)
・「絵地図」の中に入れた「各見どころ」に通し番号を振り、「オダサガ周辺のまち歩き」と「麻溝台周辺のまち歩き」との2つの地域に大きく分けて通し番号順に「歴史を踏まえた解説」と「最新の写真」ページを入れて絵地図の中に入れた番号と一致させてわかりやすくしたこと。  -などが大きな特徴です。

写真1・まち歩きマップ表紙    写真2・裏表紙   写真3・絵地図
(左)まち歩きマップ表紙
(中)まち歩きマップ裏表紙(「さがみっぱらのむかし話」)
(右)見開き絵地図

写真4・オダサガ周辺のまち歩き   写真5・麻溝台周辺のまち歩き
(左)<オダサガ周辺のまち歩き>ページ ※中を開いたところ
(右)<麻溝台周辺のまち歩き>ページ ※中を開いたところ

<各見どころを見る前に、「相模台地区の移り変わり」の予備知識を―>
(※表紙の一番下に記載されています)

◆このまちは、まだ歴史の浅いまち。人が生活するようになったのは明治の始め。それまでは原野の続く「相模野台地」。先人たちは開墾を重ね畑作地に。
◆昭和になって突然一大変化が。それが相模原市の「軍都計画」。新磯野、麻溝にまたがる広大な農地、山林が軍の施設に。
◆戦後、この跡地が第二の開墾地としてよみがえり、やがて高度経済成長時代を迎えて、新たな農地は東京近郊の一大住宅地、公団住宅に。人口急増とともに再開発を重ね、今日の新しいまちに—。

 
<今回は中面・見開きページの1ページ、2ページ目『オダサガ周辺のまち歩き』、『南台 相模台 麻溝台周辺(一部)のまち歩き』から見て行きましょう>※「麻溝台周辺全体のまち歩き」は次回の紹介となります。

 

小田急相模原駅1.小田急相模原駅( 通称: オダサガ) 北口
小田急相模原駅は1938( 昭和13) 年に開業。2007( 平成19) 年に市街地再開発で駅ビル「ラクアル・オダサガ」が完成。続いて2013(平成25) 年、県道51 号線( 行幸道路) の上を歩行者横断デッキで結ばれた商業施設「ペアナード・オダサガ」が完成し、ふたつの高層ビルが並ぶ新しい駅前に生まれ変わりました。

 

開拓集落跡地2-1. 中和田新開 開拓集落跡地(南台五丁目)
1880( 明治13) 年、旧道の府中街道( 県道51 号線) と辰街道( 座間方面へ向かう市道) が交わるあたりに数軒の開墾者たちの集落がありました。その後、家数も増えて村を形成、現在の相模台発展の原点となりました。この付近一帯は中和田新開(蓼川新開・たでかわしんかい) と呼ばれていました。

 

2-2.中和田新開 開拓記念碑と道祖神(南台五丁目)道祖神開拓記念碑
この記念碑は、開拓者たちの苦難のあとを、後世に伝えるため1919( 大正8) 年に建てられました。「蓼川新開開発百年記念碑」、「歌碑」も一緒に並んでいます。また、1927( 昭和2) 年さまざまな災いの侵入を防ぐために村の入口に建てられていた「道祖神」も同じ場所に移され祀られています。

 

二宮神社2

3.二宮神社(南台五丁目)二宮神社
開拓者たちの心のよりどころとして、小田原市にある報徳二宮神社より分霊し1947( 昭和22) 年に創建されました。境内には祭神である二宮尊徳の像が建っており、初詣、七五三、例大祭など地域の氏神様として多くのひとたちに親しまれています。

 

4.「旧府中街道」標柱(地名標柱)(南台三丁目)(写真は下左)
※地名標柱は、市で地名の由来を記した石の柱を立てたものです。
旧府中街道は相模国(さがみのくに)、厚木から武蔵国(むさしのくに)、府中(国府のあった処)までの道のりで中世から続く歴史のある道。おもに府中へ向かう人たちが行き来した道だったのでこの名がついた。「町田道」、「厚木道」とも呼ばれた。「中和田新開」はこの道に沿って開かれました。府中街道標柱1府中街道標柱2一級水準点

5.一級水準点(南台五丁目)(写真は上右)
この水準点は、1978( 昭和53) 年、下水道の埋設の際に、他の施設との高さを調整するための基準点として市内で32 番目に設けられたもので、鶴ケ丘団地公園の角(かど)に設置されています。

6.相模台商店街通り(サウザンロード相模台)サウザンロード
この商店街は北口駅前から国立相模原病院まで真っすぐに約1 キロメートルあることから「サウザンロード相模台商店街」と呼ばれ、地域の人たちにとって馴染みの深い買い物の場となっています。商店街は藤沢から続く古道「辰街道」(たつかいどう)の一部で、途中にある「公民館」は地域活動や催し、「まちづくりセンター」は地域行政の窓口となっています。

 

7.「辰街道」標柱(地名標柱)(相模台公民館前)辰街道標柱
相模原台地をほぼ縦断するようにつづく道で、辰巳(南東)の方向に向かってのびているため、この名になったといわれています。サウザンロード商店街(相模台商店街通り)はこの道がもとになっています。現在、国立病院に突き当たった先の、辰街道は不明になっています。

 

 

 

8.国立相模原病院と行幸記念碑(桜台18-1)
1938( 昭和13) 年、陸軍病院として開設。現在の広さの4 倍もの面積があり、1939( 昭和14)年、天皇陛下が傷病兵を見舞った行幸記念碑( 館区内最大の石造物・高さ約3.5 メートル)があります。※同病院の現名称は独立行政法人 国立病院機構相模原病院
国立相模原病院行幸記念碑

9.百メートル比較室(測地学試験場)(施設標示)(相模台二丁目)
1928( 昭和3) 年ごろ日本地図の原点となる相模野基線の中程に設置され、100 メートルに及ぶ距離を正確に測れる施設( 軌条と標石) を建て、その長さから通称「六十間長屋」と呼ばれていました。現在は案内板があるのみです。
百メートル比較室百メートル比較室2
手前角の宅地内に百メートル比較室が存在

10.さがみの仲よし小道(畑地灌漑用水路跡)(相模台〜新磯野〜麻溝)
1950( 昭和25) 年、相模川から畑地灌漑用水路として引かれ1964( 昭和39) 年完成しましたが、高度経済成長期に周辺が宅地化され1970( 昭和45) 年以降地下水路化し、上を遊歩道として使われています。相模台五丁目付近では巨大な土管を見ることができます。
さがみの仲よし小道さがみの仲よし小道2
相模台4丁目付近            新磯野付近

11.相模台団地と桜並木(相模台団地)相模台団地と桜並木
1966( 昭和41) 年、旧公団住宅が相模台団地を建設、続いて1969( 昭和44) 年、相武台団地が建てられ住宅地として発展しました。団地内には桜並木があり、花見シーズンには穴場スポットとして楽しまれています。

 

 

12.相模台公園・テニスコート・野球場(桜台21)
公園と市営のテニスコート・野球場の複合施設で、住宅街の中の緑豊かな近隣公園として市民に利用されています。
相模台公園の松林テニスコート
相模台公園野球場
(上左)相模台公園の松林
(上右)テニスコート
(下)野球場

13.相模野基線北端点(一等三角点)(麻溝台五丁目)
1882( 明治15) 年、現国土地理院は日本全国の正確な地図を作るため、当時の最新式三角測量の基(三角点)の底辺となる基線の設置場所を日本で最初にこの地を選びました。広い平坦な土地で障害物がなく空気が澄んで見通しのよいこの場所を北端点とし、5.21 キロメートル離れた南端点( 座間市ひばりヶ丘) を軸にして地図が作られました。最近ではこの長さの変化を精密な繰り返し測量で見つけ、地震予知等に利用している大切な測量基準点です。(市史跡及び2010( 平成22) 年、神奈川土木遺産に認定)
相模野基線北端点相模野基線北端点2
中央の低い石柱が基線北端点      傍らに建つ解説板

【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】

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