第9回 「麻溝台地区の昔々」 No.4

 

今回の「麻溝台地区の昔々」は、この地域にある隠れた相模原市指定史跡をご紹介いたします。

相模野基線北端点(麻溝台一等三角点)

<日本最初の三角測量を基にした『相模野基線北端点』とは一体何か>

◆先ず最初に、三角測量の基となる三角点とは何か—からお話しましょう。

・地図づくりは地形上に「三角点」というものを順次定めていき、それを結ぶことにより正確な地図が完成します。

・国土地理院発行の1万分の1〜20万分の1の地図を見ると、三角点と呼んでいる記号があります。これは日本全土に2キロメートル間隔で示されており、三角点のうち特に45キロメートル間隔で示されているものを一等三角点と呼んでいます。

・次に一等三角点の中に約8キロメートル間隔で示されたものを二等三角点、4キロメートル、2キロメートルの間隔で示されたものをそれぞれ三等、四等三角点とし、これらを元に日本全土の地図などを作る際の骨組みとしています。

・実際に三角点間の距離を測った線を基線と呼び、その場所を「基線場」といい、そのひとつが「相模野基線」です。

◆それでは、「相模野基線」とは何か—-

・1882(明治15)年、日本陸軍参謀本部、陸地測量部(現・国土地理院)が全国の地図を作るために、日本で最初に設定した三角網としての基点で、我が国の近代地図の発祥地として、歴史的存在価値の高いものです。市内、麻溝台に今も残る、この地を「基線北端点」と定めました。

・麻溝台中学校の近く、源悟山 顕正寺前を通る市道(昔、いの原、ろの原と呼ばれていた通り)から少し奥に入った医院、薬局の裏側にあります。市道脇に立てられたポールの上に、矢印付きの小さな案内板が出ています。

・当時の地名は「相模原畑5739番地イ号共有地」、その後、高座郡・下溝村となり、現在は南区麻溝台4丁目2100。

写真1・相模野基線表示板           写真1・市道脇に立てられた相模野基線北端点の所在を示す案内板

・北端点標石のかたわらに御影石に刻まれた解説板があります。どんなことが記されているのでしょうか。(※設置年、不明)

「相模野基線北端点」
一等三角点   下溝村
当基線場は、日本の近代測地測量を実施するにあたり、明治15年に日本で最初に設置されたものです。
南、北両端点間の長さ、5209.9697mをもとにして我が国の地図は作られました。
最近では、この長さの変化を精密な繰り返し測量で見つけて、地震予知等に利用している大切な測量基準点です。

建設省国土地理院

三角点は、地球上の位置と高さが正確に測量された地点で、三角点標石の上面に刻まれた十字の中心が、正しい位置を示しており、これを基に細部の測量を行い地図が作られ、土木工事などが行われています。

現在では国土地理院の三角点(一等三角点〜四等三角点)は、全国に約十万点も設置されています。

図表1 相模野基線図 図表2基線図資料

図表1 相模野基線図を現在の地図上に再現  図表2 相模野基線長を基に増大させた三角測量

・相模野基線は、南北両端点を一組として、平成22(2010)年に神奈川土木学会選奨土木遺産に認定されました。(全国に設置された多くの基線が無くなってきている中、相模野基線は100年以上経ってもすべての「点」が残っています)

◆当時の測量の状況は—-

・三角測量の工程は「計画」「選点」「造標(ぞうひょう)」「埋石(まいせき)」「観測」「計算・整理」といったように実施されました。「選点」とは、既存の地図などで立てた計画に沿って、三角点の位置を現地で選定すること。点の密度、三角網の形、「視通」と呼ばれる観測線の確保、のちの標石の保全などを加味して行われます。しかし、近代的な地図が整備されていないこの時期の図上での計画は、あって無きのようなものですから、現地踏査が重要であったわけです。

・一方「観測」は、設置された測量標石間の距離と角度を求めるために、各三角点に目標となる櫓(やぐら)を設置して、これを観測機器でとらえることで行われました。もちろん、三角点間距離の最初は、基線測量で求められた一辺です。(これが相模野基線です)

・この南北両端点を底辺として三角形の西の頂点を鳶尾山(とびおさん・海抜255メートル 厚木市中荻野)、東の頂点は高尾山(海抜100メートル 横浜市港北区長津田)としました。さらに三角点を延ばし、南は平塚の浅間山、北は武蔵の蓮光寺村、西は丹沢山、東は千葉県の上総鹿野山を頂点として、漸次全国的な三角網として拡大。東京麻布の天文台を、これら三角点の原点としました。

・このようにして決められた相模野基線をもとにして、初めて2万分の1の地形図が作られ、後に5万分の1や2万5千分の1の地形図へと発展させました。

◆なぜ下溝村(当時)が選ばれたのでしょう—-

・基線を設ける条件としては、広い平坦な原野で、よく見通しのきくように空気が澄んだ土地でなければなりません。当時の相模野は現在と違いもっともよくこの条件に適していました。

・観測に当たっては、両端の基端点の間は見通しがきくように、木や草を刈って幅4メートルほどの道を作って測量が行われました。

・当初は二等三角点の基線端点として選定されましたが、基線の測量結果が非常に良かったので、1883(明治16)年一等三角点に採用されました。

写真2・相模野基線北端点1 写真3・相模野基線北端点2
写真4・相模野基線北端点3 写真5・相模野基線北端点4

写真6・相模野基線北端点5《写真》
写真2(上左)・北端点全景
写真3(上右)・相模原市指定史跡を示す案内板
写真4(中左)・北端点標石と解説(内容は上記参照)
写真5(中右)・標石の頂部十字の交点が位置座標。周囲の石は石標を守る妨衝石
写真6(下 )・平成2年に、国土地理院監修により設置された相模野基線の解説板

◆現在の標石は—–

・現在の三角点標石(埋石)は、半永久的に残るよう1890(明治23)年11月に改造され、花崗岩石で台石の上からの高さは19センチ、幅18センチで台石の頂部に十字線(交点)が刻まれています。近年になって傍らに「基本測量」、「三角点」と記された小さな白い標柱が立てられています。

・これらの測量で使用される標石は、柱石と盤石からなり全体は地下約1メートルの深さに埋められています。

・当時はこの石標の上に高さ4〜5メートルのやぐらが建てられていて、どこからもでも望まれ、土地の人は「ぼんてん」と呼んでいました。終戦直後には壊れてなくなっていましたが、昭和二十年代前半頃、再びこの「ぼんてん」が設置され、終戦後の相模野台地の開発測量の基点となっていたようです。(「ぼんてん」は測標(測量櫓(やぐら))と呼ばれ、建て方の規格に沿って建てられていました)・観測は第1回目の明治15年から、明治35年、明治43年、大正13年と合計4回行われています。明治15年の時は中間点2点を設置し、3つに分割して観測を行い106日を要しました。

・大正13年の観測は明治43年の結果から比べると243.6mm基線長が長くなりました。この結果は、両端点に異常が認められないことから、この地域の関東地震による地殻変動を検出したことになります。

・この観測は、関東大震災復興の基礎となるだけでなく、地震学から見ても地殻変動をとらえる貴重な結果となりました。

・大正13年の観測では48日間の作業を要し、担当測量官は、測量師3名、測量手10名を2〜3日交代で行い、担当した延べ人数は、測量官216名、測夫354名、人夫297名。基線観測における実測作業はいずれも、昼夜にわたる文字通りの不眠不休の激務であり、「一度は行くべし、二度とやるべき仕事にあらず」と言われたそうです。

・次回は、明治初期に行われた困難を極めた観測の実際をご紹介いたします。

◆資料出典:「座間 美都治著 相模原の史跡」、「山岡 光治著 地図をつくった男たち」、「土木遺産認定講演会資料」、他


【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】

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