第4回 「水道みち・トロッコの歴史」
今回は、第1回目のこのページでお話した「横浜水道みち」の続編を取上げます。
津久井の相模川と道志川の合流点、三井村(現・相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)までの44kmを、1887年(明治20年)我が国最初の近代水道として創設されたことは、すでに紹介いたしました。
運搬手段のなかった当時の土木工事は、巨大な鉄管や資材、機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用して水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代消防の一歩を共に歩んだ道が、ここ、県立相模原公園と女子美術大学の脇を通っている「水道みち」で、知ることが出来ます。
写真1(撮影場所:女子美術大学脇の水道みち。見通しのよい真っすぐな道) | 写真2(撮影場所:相模原公園西側の水源方向から登ってくる水道みち) |
当時、水道みちを敷設するに当たって、全行程44kmの長丁場を乗り切るにはトロッコの力を最大限に借りて造られた大掛かりな土木工事であったことがわかります。そのことを表すものとして、「近代水道創設120周年」を記念し、横浜水道局の手によって、『水道みち トロッコの歴史』の案内板が津久井の三井用水取入所から18kmのこの場所に立てられています。この案内板は全行程の中で26基立てられ、ここ女子美術大学脇のものは9番目に当たります。またここにはもうひとつの案内板が立てられています。横浜水道局と女子美術大学の協同制作による『横浜水道の歩み』という、美しく、わかりやすい立派な案内看板がそれです。そこには、安政6年、横浜開港により人口が急増し、安全な水道を引く必要性に迫られたことに始まり、英国人の技師ヘンリー.S.パーマーを招いて設計を依頼。明治20年にようやく近代水道が完成した等々の歴史が描かれています。その他にも横浜は埋め立て地で井戸水は塩分を含んでいたため、「水売り」から買うひしゃく一杯の水が貴重品であったというようなおもしろいエピソードも紹介されています。
写真3(撮影場所:女子美術大学脇に立てられているトロッコの歴史・案内板) | 写真4(撮影場所:トロッコの案内板にある当時の麻溝村、水道みち敷設の様子) |
この案内板のなかでも目をひくのは、津久井の水源から横浜の野毛山浄水場までの道筋を描いた「絵地図」が添えられていることです。これを見ると、水道みちは何処を通って横浜まで運ばれていたのかが一目でわかるようになっています。また、この下には直径1.5mの水道管が通っていることも図解入りで説明されています。
写真5(撮影場所:女子美術大学脇に立てられている横浜水道のあゆみ・案内板)
(この付近は当時「山之神」という地名で呼ばれていたらしい)
案内板の近くには、厳重な鉄柵に囲まれた大きな制御弁が地上に姿を現し、水道みちは単なる遊歩道ではなく、現在も道の真下には、とうとうとした水が流れている現役の「水道管の道」であることを私たちに示してくれます。かつてはこのすぐ近くに巨大なコンクリート製の要塞のような減圧水槽もありましたが、送水技術の進歩の結果、その必要性が無くなり今は撤去され面影もありません。
ここを通っている水道みちは、相模原麻溝公園のど真ん中を通る導水線路「緑道プロムナード」として整備されているので、当時の水道管敷設がいかに大事業であったかに思いを馳せながら、一度ゆっくりと歩いてみるのも良いかも知れません。
【写真&テキスト/相模台6丁目 猪俣 達夫】
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